三戸町の農家さんからお誘いいただき、人生初のさくらんぼの収穫体験をしたあと、ひと息つきながらツイッターを眺めていたら、ある人のこんなツイートが目に飛び込んできました。
人生初のさくらんぼ狩り。
— 大牧圭吾|ニッポン手仕事図鑑 (@by_waterman) 2019年7月7日
3個積んで、1個食べる…。
合計5箱にもなったので、
オフィスに送ります。#三戸のさくらんぼ pic.twitter.com/1uZ1e608P2
これは、さくらんぼの収穫の話ですが、それはさておき…。
ツイートの内容は、『最近、野村克也さんの「35歳を超えて敵がいないということは、人間的に見込みがないということである」って言葉の意味を痛感している』というものでした。
野村克也さんが「人間的な見込み」に込めた意味はよくわからないのですが、「何かを成し遂げる(=世の中に影響を与える)見込み」という意味であれば、僕はこの考え方には賛成です。35歳を超えて、何かを成し遂げて、世の中に影響を与えている人には、例外なく「敵」がいるものだからです。
「敵」には大きく分けて、本来の意味でもある仇敵(=恨みを持って立ち向かう相手)という意味合いと、自分にポジティブな影響を与えてくれる「好敵手(=ライバル)」という意味合いがあり、野村さんはきっと、「どちらもいないとダメだ」という意味で言われていたのではないかと、勝手に推測しています。
あくまでも僕が見てきた世界の中での話ですが、35歳を超えて好敵手も仇敵もいない人で、何かを成し遂げて、世の中に影響を与える何かを生み出した人はいません。なぜなら、自分の考えや目標、ポリシーをしっかりと持ち、行動をする人には、必ず“自然発生的に”反対派も、同じ道を行く強敵も出てくるからです。そう、100%出てくる。どんなに聖人君子に見えるような人でも、ビジネスで何かを成し遂げた人には、必ず“敵”がいるのです。
野村さんがどんなシーンで、どんな意味を込めて、冒頭のコメントをされたのかはわかりませんが、自分の考えを持って、その考えに忠実に、積極的に行動するというのは、そういうことなのです。もちろん、何かを成し遂げて、世の中に影響を与える人が偉いわけでもありませんし、正しいわけでもない。敵なんて、いないほうがいいという考えもあると思うので、「自分は人間的な見込みがないのかな…」と、決して落ち込まないでください。
それはさておき、敵にされてしまうことって、誰にでもあります。
今、ふと思い出したので書いておきますが、僕も以前ツイートで紹介をしましたが、『猫のお寺の知恩さん』というマンガに出てくるおばあちゃんのこんなセリフが話題になりました。
「どんな良い人間でも、きちんとがんばっていれば だれかの物語では悪役になる」
そう、人は一生懸命生きていれば、敵をつくるし、誰かの敵になってしまうのです。敵がいる自分の生き方を否定する必要はないし、敵をつくらないように…と、びくびくしながら生きているのも、僕は違うと思うのです。敵がいるというのは、健全に生きている証なのかもしれません。