「正当な評価」
今年、この言葉を耳にする機会が多かったような気がします。そして、耳にするたびに、いつも少し違和感を覚えていた言葉でもあります。だからこそ、自分の中に強めに残っているのかもしれません。
確かに今の世の中には、正当に評価されず、苦しんでいる方が多くいらっしゃいます。一次産業の生産者さんや、僕らがいつも接している伝統工芸の職人さんの中にも、その技術や価値が正当に評価されず、厳しい状況に置かれている人は多い。また、それらの人たちだけでなく、コロナ禍の今、スキルや経験、人間性が正当に評価されず、勝負の舞台に立つ機会すらも与えられなかったり、十分な報酬をもらえない20代、30代の若者もいる。それらはすべて事実です。
ではなぜ、「正当な評価」という言葉に、違和感を感じるのか?
それはシンプルに、どこに“立っているか”で、正当な評価や価格が変わるから。
たとえば僕らが今、全力で応援している伝統工芸の世界において、職人さんが希望する利益が得られる価格で取引される=正当な評価であるか? と聞かれたら、確かに喜ばしいことではありますが、僕は即答で「イエス!」とは答えられません。
そこには消費者がいて、販売するお店があり、商品を運ぶ人たちがいる。その人たちの状況や考えを無視したり、利益を守るために誰かが無理をするのは違う。さらに書くと、利益を確保するために店舗では売れないからECサイトのみで販売するとなれば、買えない人も出てくるし、店舗の販売員や物件を所有したり、管理する人たちの中にも、困る人たちがいるかもしれない。
その背景が見えない中で、希望する利益で取引されることが正当な評価であるとは言えない…そう思うのです。正当な評価、正当な価格というのはとても判断が難しいからこそ、「正当な評価、正当な価格」が誰かの視点でしか語られなかったり、一方通行気味に使われているように見えることが多々あったので、違和感を感じていたのです。
「誰もが正当に評価されるように」
「弱者が正当な評価をされるように」
僕が目指す社会も正直、ひと言で言えば、これに当てはまります。が、だからこそ一方通行にならない視点で、冷静に考え、動いていきたいと思うのです。